最近では女性のみ参加できるウェメンズ・マラソンこそあれ、女性が参加できないマラソン大会はほとんどないと思います。女性ランナーも男性と並んで出場のするのは当然のことであり、なんなら男である私なんかより全然速い女性ランナーも沢山います。
しかしこの「当然のこと」が、ほんの60年足らず前は考えられないことでした。女性はか弱い存在であり、マラソンなんて到底走り切れない、という考えが常識だったのです。女性ランナーはマラソン大会に出走することも認められませんでした。フルマラソンを走り切れるという事を証明するチャンスすら与えてもらえなかったのです。
そんな時代に三人の勇敢な女性が登場し、「女性はマラソンを走れない」という当時の常識を覆して女性ランナーも平等に走る権利を勝ち取る運動の先駆けとなりました。そして1972年、ボストンマラソンは初めて公式に女性ランナーの参加を認めたのです。今回の記事はその三人の女性を紹介してみたいと思います。
ロベルタ・ルイーズ・ギブ
生い立ち
ロベルタ・ルイーズ・ギブ (Roberta Louise Gibb、ニックネームはボビー Bobbi)はボストン郊外で生まれ育ち、学生の頃から既に生粋のランナーでした。しかし当時は女性用のランニングシューズが販売されておらず、赤十字の看護師が履く白い革靴で走っていたそうです。学校まで8マイル(約13キロ)の距離を走って通学していたというのですから驚きです。
ボストンマラソンにエントリーするも、認められず
ロベルタさんは22歳の時にボストンマラソンを走る事を夢見て、2年間に渡りトレーニングを積み、時には一度に40マイル(約64キロ)も走ったといいます。そして1966年のボストンマラソンにエントリーします。しかしレースディレクターであるウィル・クルーニーからの返事は、「女性は生理学的にマラソンの距離を完走するのは不可能であり、アマチュア体育連盟(AAU)のルールに則り、1マイル半(約2.4キロ)以上の距離における女性の参加は認められない」というものでした。この返事を受けて、彼女は自分がボストンマラソンを完走することは、自分個人の目標を達成することより遥かに大きな社会的な意味を持つということを悟りました。
非公式でも構わず出走
そして1966年4月19日、彼女は母に車でスタートラインの近くまで乗せていってもらい、スタートエリア付近の茂みに隠れました。そしてスタートの号砲が鳴るのを待ち、ランナーのおよそ半数がスタートラインを超えたあたりで茂みから飛び出してレースに合流しました。もちろんゼッケンも付けておらず、男装するために兄弟の短パンとトレーナーを頭から被った格好、その下にはタンクトップの水着を着ていました。
彼女の周りのランナーは女性が混じって走っていることにすぐに気が付きましたが、彼らの反応は意外にも友好的でした。そして彼女の心配とは裏腹に、観客も喜んで彼女を応援しました。多くのサポーターに後押しされ、彼女はトレーナーを脱ぎ、女性であることを隠さずに走りました。これにより、レースのレポーターも彼女の走りを伝え始めました。
彼女が見事にゴールした時のタイムは3時間21分40秒という、参加者の上位3分の1に入る見事な成績でした。フィニッシュラインではニュースを聞きつけたボストン市長のジョン・ヴォルプ(John Volpe)が待っており、ゴールしたロベルタさんに握手を求めその功績を賞賛しました。それでも大会側は彼女の記録を認めませんでしたが、彼女の勇敢な行動は女性でも立派にマラソンを完走できることを証明し、女子ランナーにもマラソン大会の参加権を与える方向に世論を大きく動かしました。
それでも彼女は走り続けた
当時の陸上界において絶対の権利であったアマチュア体育連盟(AAU)は、ロベルタさんがボストンマラソンを完走した後もすぐには女性のフルマラソン大会参加を認めませんでした。しかし彼女は構わず毎年ボストンマラソンに非公式で参加し、走り続けました。女性ランナーの参加者も一人、また一人と増えていき、そしてつい1972年、ボストンマラソン大会は正式に女性ランナーの参加を認めるに至りました。
1996年のボストンマラソン100周年の年はロベルタさんが最初にボストンマラソンを完走した年から30周年の年でもありました。この年、ついにボストン運動協会(B.A.A.)は1966年、1967年、1968年のロベルタさんのフィニッシュタイムを公式な記録として認定し、彼女にメダルを与えました。そして彼女の名前はコープリー広場にて、大会の歴代勝者たちの名前が刻まれる石畳に加えられることになったのです。
キャサリン・スウィッツァー
生い立ち
キャサリン・スウィッツァー(Kathrine Switzer)はドイツのアムベルグにあった米軍基地でアメリカ陸軍少佐の娘として生まれました。彼女が生まれて二年後の1949年に彼女の家族はアメリカに帰国。バージニア州フェアファックス郡にあるジョージ・C・マーシャル高校を卒業し、リンチバーグ大学に入学。1967年にニューヨークのシラキュース大学に編入し、ジャーナリズムと英文学を学びました。1968年に学士号、1972年に修士号を取得している才女です。
男子クロスカントリー部と練習開始
シラキュース大学に編入した1967年、彼女はなんと同大学の男子クロスカントリー部と一緒にトレーニングする許可を求めました。その申し入れは受け入れられ、クロスカントリーのアシスタントコーチだったアーニー・ブリッグスが彼女のトレーニングを受け持ちました。ブリッグスも最初は彼女がフルマラソンの距離を走る事に懐疑的でしたが、キャサリンはトレーニングを通じて実力と決意を証明し、ブリッグスも最終的には彼女がボストンマラソンに出走することに全面的に協力することになりました。
1967年のボストンマラソンに出走
当時、ボストンマラソンのルールブックには性別について特に言及されていませんでした。この時点で既に前述のロベルタ・ギブが前年の大会を完走していましたが、その成績は正式には認められていなかった反面、ルールブックも明確に女性の出走を防ぐよう変更されていませんでした。つまり、この時点ではまだボストンマラソンのルールブックには女性ランナーの参加を認めないとは明記されていませんでした。(AAU、アマチュア体育連盟のルールでは女性が1.5マイル以上の種目に参加することは認められていませんでした)
そこでキャサリンは自分の名前をK.V. Switzer(K.V.は彼女のイニシャル)でレースにエントリーし、正式なゼッケンを取得します。そしてそのゼッケンの受け取りは知り合いの男性ランナーに代行してもらい、大会当日にそのゼッケンをつけて出走しました。
妨害を受けながらも見事に完走
キャサリンはコーチのブリッグスとボーイフレンドのトム・ミラーと共にスタートラインに並び、周りの男性ランナーもキャサリンが走る事にとても協力的でした。キャサリンもロベルタと同様トレーナーのフードを頭から被っていましたが、その協力的な雰囲気に助けられてフードを外し、女性であることを隠さずに走りました。
ここで歴史的な瞬間が訪れます。レース主催者の一人であるジョック・センプルがキャサリンが女性であるにも関わらずゼッケンを付けて参加していることに気づき、力ずくで彼女からゼッケンを外そうとしたのです。しかし彼女は抵抗したため、手袋は外れてしまいましたがゼッケンは無事でした。そして一緒に走っていたブリッグスとトムによってセンプルは無力化され、キャサリンは走り続ける事ができました。この歴史的な瞬間が、↓の写真に収められました。
キャサリンは約4時間20分でフィニッシュし、コース上で起きたこのハプニングは国際的な話題となりました。既述の通り、この年もロベルタ・ギブはゼッケン無しで走っており、キャサリンの一時間ほど前にフィニッシュしていましたが、この年はキャサリンが公式のゼッケンを付けて走ったこと、そしてレース中に受けた妨害の方が大きな話題となり、女子マラソン界の扉を開ける事を求める声がより一層強まることになりました。
ボストン陸上協会に働きかけ続けた
キャサリンがボストンマラソンを登録選手として完走した後、AAUは規則を変更し、女性が男性ランナーと一緒に大会への参加することを禁止し、違反した者はその後いかなる陸上競技大会に参加する権利を剥奪するとしました。しかしキャサリンは他の女性ランナーとともに、ボストン陸上協会に女性が大会に参加できるように働きかけ続けました。そして1972年、ついにボストンマラソンは正式に女子部門を設立するに至ったのです。
後日談ですが、キャサリンとセンプルはその後に和解し、友人となりました。キャサリンは当然センプルの妨害に怒りを覚えたものの、後になって「今では感謝している」と振り返ったそうです。「センプルは、あの時私を襲ったことで私が女権運動のために燃え続ける火種をくれた。そして女権運動の象徴となる写真が生まれるきっかけを作ってくれた。人生では最低なことが起こっても、時にはそれが最高な結果を生み出すことになる」と、彼女はセンプルとの関係についてある取材で答えています。
その後の功績
その後キャサリンは1974年のニューヨークシティマラソンで3時間7分29秒のタイムで優勝を果たしました。彼女の生涯ベストタイムは、1975年のボストンマラソンで走った2時間51分37秒です。
キャサリンはその後も女権運動と陸上界における女性の活躍に貢献し、ロサンゼルスマラソンの解説でエミー賞を受賞するなど、女子陸上界のパイオニアであり続けました。
2013年の取材で、彼女はこう語りました。「最近はボストンマラソンに行くと、私の肩はびしょ濡れになってしまうの。女性が次々と私の腕の中に倒れ込んできて、号泣するから。彼女たちは自分たちがランニングによって変わることができた喜びを抑える事ができなくて泣いている。彼女たちは自分たちだって何でもできると感じれる事に泣いている。」
ニーナ・クースチック
生い立ち
ニーナ・クースチック(Nina Kuscsik)は1939年に生まれ、幼少期から自転車やスケート競技で活躍するアスリートでした。15歳のとき、ロジャー・バニスターが1マイル走(1609メートル)で4分間の壁を破ったことから、ランニングにも興味を持ち始めました。(1マイル4分の壁は、当時は絶対に破れないとされていました)しかし彼女はその秘めるランニングの才能を開花させるより前に結婚し、看護学校への入学し、出産を経験し家族を養う母親となりました。
1969年ボストンマラソンに出走
ある日、Bill Bowerman(ナイキの創始者の一人)の著書『Jogging』を1ドルで見つけたKuscsikは、それを家事の合間に読んで触発され、ランニングを始めました。育児で走る時間が無かったので、子供達を寝かしつけてから夜に自宅の周りを走り回り、頻繁に自分の家の前を通ることで子供が泣いていればすぐに家に駆け込めるようにしていたというのですから驚きです。
そのうち彼女のトレーニングは本格化していき、いよいよ1969年に彼女は自分の実力を試すために非公式でボストンマラソンに出走します。(ボストンマラソンにはもともと「バンディット」と呼ばれる非公式のランナーが最後尾を走る文化があり、彼女はその一人として参加した)3時間46分という立派な記録でしたが、彼女は女性が公式にマラソン大会に参加することができない事に違和感を感じ始めます。
アマチュア体育連盟の年次会議に出席
1971年、ニーナさんはアマチュア体育連盟(AAU)の年次会議に出席しました。この頃には既に彼女はマラソン界でも知られる顔になっており、フルマラソンで3時間を切ったばかりでした。これは、アメリカ人女性として2人目の快挙です。彼女はAAUに提案書を提出して、女性への禁止を解除し、公式にレースに参加できるようにすることを求めました。委員会は、AAUが認可する女性のイベントの最大距離を5マイルから10マイルに引き上げ、「特定の女性」はマラソンを走ることができるという追加条項を設けました。このルールでは、依然として女子の部は別スタートが必要でした。
この別スタートは「分離すれども平等」、別々にスタートするが条件は平等であるという説明が使われました。
ボストンマラソンで初の女子部優勝
ニーナさんを含む8人の女性が、1972年のボストンマラソンに新しいAAUルールの下で出場しました。彼女の3時間10分26秒のタイムはついに公式記録として認められ、彼女はボストンマラソン史上初の女性チャンピオンになりました。
ニューヨークシティ・マラソンでの座り込みデモ
1972年のニューヨークシティマラソンでは、ニーナさんと他5人の女性が、セントラルパークのスタート地点で密会を行いました。号砲が鳴ると、なんと彼女たちはスタートラインに座り込んで、女性ランナーの別スタート・ルールに抗議しました。マスコミがこのニュースを報道した後で、女性たちは立ち上がって走り始めました。ニーナさんはまたも優勝し、同じ年にニューヨークマラソンとボストンマラソンにて優勝した最初の女性となりました。彼女は1973年のニューヨークシティマラソンでも再び優勝しています。
1972年のAAU年次会議で、ニーナさんはACLU(アメリカ自由人権協会)の弁護士に準備してもらった訴訟を起こし、「分離すれども平等」な女性ランナー別スタートの要件を撤廃することを要求しました。そしてニーナさん達は訴訟に勝ち、ついにこのルールは撤廃されるに至りました。
その後の功績
1977年、ニーナさんは自己ベストの2時間50分22秒でマラソンを走破し、同年、セントラルパークで開催されたNYRR 50マイルを6時間35分53秒で完走し、アメリカ記録を樹立しました。
2022年、ニューヨーク・ロードランナーズ(ニューヨークシティマラソンの開催者でもニューヨーク最大の陸上協会)はニーナさんにアベベ・ビキラ賞を与えました。この賞は、長距離走スポーツにおいて大きな功績残した人に与えられ、日本人では野口みずきさんが2004年に受賞しています。
まとめ
ボストンマラソンは1800年代から続いているマラソン大会であるため、深い歴史があります。そのため女性がマラソン界に進出し始める節目にも関わっており、その火種を作ったのは三人の勇敢な女性ランナーでした。(もちろんこの三人は女権運動のアイコニックで代表的な存在であり、この三人以外にも女権運動に貢献した人は沢山います)
実はこの時代は、黒人の公民権運動によりアメリカ史が動いた激動の時代でした。黒人差別も女性差別と同じ言葉使われており、もとは「分離すれども平等」という言葉も人種差別することを合法化するための法原理でした。私はアメリカで活動するアジア人のランナーとして、自由に活動できる事は当たり前のようで決してそうではなく、沢山の人達が権利を勝ち取る運動をしてくれたお陰なのだという事実を忘れてはならないと今回の記事を書くことを通して再認識しました。
ボストンマラソンを走る時は、この三人の勇敢な行動に思いを馳せながら走りたいと思います。
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